風林火山

 井上靖原作「風林火山」が大河ドラマで放映されていますが、これは主人公の山本勘助を中心に戦国最強と言われた武田軍団の活躍を描いたものです。武田軍団といえば、地元山梨県と川中島合戦、家康を破った静岡県の三方ケ原の戦い、そして武田家滅亡のきっかけとなった長篠の戦いが有名ですが、信玄が武将として生涯の大半を費やしたのは隣国の信濃の制覇でした。室町幕府の弱体化に伴う守護大名の衰退と変わって力をつけてきた、地方豪族の登場により全国各地で内乱が起こりましたが、有力で巨大な豪族のいなかった信濃は、まさに武田の草刈場となっていました。
当時信濃国には守護大名として小笠原氏がいましたがもはや信玄に抗するほどの力はなく、信濃の南半分と佐久地方はあっという間に信玄の勢力下になってしまいます。最初は敵対していた武将、敗れた武将、負けを見越して武田方に付くものと様々ですが、武田に付いた武将は信濃先方衆と呼ばれ、武田の信濃攻略の最前線で活躍します。
武田信玄の信濃での最大の敵は村上義清で、現在の坂城町の葛尾城を本拠としていましたが、今も坂城町には村上という地名が残っています。

 さて佐久を平定した武田信玄ですが、次は村上との激突です。しかし村上は大変強い武将でした。村上との直接対決となった、坂城町と隣接している上田市内の「上田原の戦い」では信玄初めての負け戦となりますが、それは大敗と言っても良く、上田原古戦場には、戦死した武田家随一の武将であった板垣信方の墓が今も残ります。たばこが好きであった板垣は石の上で一服している所を敵方から何本もの弓矢を受け、亡くなったそうですが、その板垣を偲び、たばこの煙が線香代わりに供えられています。
上田原での戦いの2年後、村上方の居城があった砥石・米山城(上田市)での戦いでは、20日間の猛攻にも関わらず、城は落ちず、逆に引き上げて行く武田方に追い討ちをかけた村上方に大敗を喫します。
2度もの大敗に武力での制圧から方針を変えた武田方は、得意の調略(敵方に武田の内応者を作り裏切らせる)に乗り出します。その立役者が池波正太郎「真田太平記」の中で家康相手に大活躍した真田幸村の祖父にあたる人物で、真田幸隆です。元々真田一族は長野県小県地域の名門豪族である海野一族の出身ですが、当時傑出した智将であった幸隆が元々敵対していた武田方に付いたことにより、武田の信濃支配は急速に加速して行きました。 砥石城の戦で敗れた武田信玄ですが、村上方の武将であった真田幸隆の実弟を調略し、翌年には砥石城を乗っ取ることに成功します。
 以降、急速に村上義清の力は弱まり、村上は越後の龍、上杉謙信の元に去り、武田の信濃支配が完了しました。村上という緩衝地帯があったことにより対決することがなかった武田、上杉両軍ですが、これ以後11年に亘り川中島合戦が繰り広げられます。近年出た新しい見解に最強と言われた武田軍は必ずしも、一枚岩の鉄の団結を誇った軍団ではなく、力のある有力武将の寄せ集めで、本当に武田軍が完成したのは、信玄晩年頃の「三方が原の戦い」であるという説があります。この根拠となる資料が上田市の生島足
生島足島神社
生島足島神社
島神社(いくしまたるしま)に残されています。そこには、上杉との戦いの前に、絶対に裏切らないよう旗下の武将に信玄が誓わせた血判状(起請文)が数多くあり、それをもって信玄という人物像を実はいつも仲間の裏切りに怯え、人をむやみに信用しない人物であったとする論者も出てきています。真実のほどはわかりませんが、武田の調略は特に有名な戦略ですので、あながち否定できないものもあるような気がします。
 また信玄が甲斐の守護となったのは実父を追放したことによりますし、後年、嫡男も殺しています。強い者の陰でいかに多くの弱者が切り捨てられ、殺されていったかということについては、歴史の必然とするのは容易いですが、歴史は現在まで繰り返しています。信玄は志半ばでこの世を去りますが、その時点ではまだ、追放された実父は生きていました。追放された父(信虎)は、信玄死去の報を聞き、何を思ったのかは、資料が残されていませんので想像するしかありません。